115 事務所を開業しようと思われたきっかけを教えてください
「弁護士資格をとる=事務所を開業する、ということを意味していました」
ベタな昭和のサラリーマンだった父親の背中を見て「こうはなりたくないな」と思っていた中でなんとなく法学部に入ったこと、及び当時はまだトム・クルーズさんや織田裕二さんの法廷ドラマなどを見て法曹に対する青臭い憧れがあったことなどから司法試験を始めました。
![](/house-journal/img/top-interview/vol001/img_article_01.jpg)
もっとも、なかなか司法試験に受からない中で起業志向の方とお会いする機会があったり、刑事弁護などめったにやらない実際の弁護士の地味な仕事ぶりを知るに至ると、自分にとっては純粋な弁護士というよりも起業家が合っているのではないかと思うようになりました。
その反面、裸一貫で起業するほど自分に自信が無かったので、やはり資格を取っておくべきだと思い受験を続け、なんとか合格することができました。なので、私にとっては、弁護士資格をとる=事務所開業する、ということを意味していました。
とはいえ、私が司法修習生のときから、いわゆる「即独」(弁護士登録してすぐに独立した事務所を立ち上げること)する人は皆無に等しかったことから、最初は「イソ弁(居候弁護士のこと)」としてどこかの事務所に勤務することも当然考えていました。
しかし、受験時代にいろいろな仕事を転々としている中で、尊敬できない上司のもとで働くことが私にとっても最も苦痛だと感じていたことと、修習生のときに自分と合う弁護士と出会えそうもないと感じたことから、修習開始後の比較的早いうちから「即独」する決意をしていたような気がします。
![](/house-journal/img/top-interview/vol001/img_article_02.jpg)
215 お仕事(会社経営)で印象的な出来事、エピソードを教えてください。
「おいこら、なんじゃこりゃ?今からお前のところに行くぞ!」
![](/house-journal/img/top-interview/vol001/img_article_03.jpg)
事務所が明石町にあったときなので、確か2009年ころだったと思いますが、千葉のローカルのパチンコ屋さんに勤務していた方の解雇・残業代の事件のことです。
通常の事件処理のとおり、内容証明郵便の発送で解決しなかったことから、労働審判を申し立てまして、裁判所から相手方の会社に申立書が発送された後ですが、先方の社長から事務所に直接電話が架かってきました。
それ自体はさほど珍しくないことなのですが、「おいこら、なんじゃこりゃ?今からお前のところに行くぞ!」と詰め寄られ、私は「来れば?」と適当に流しました。
このようなやり取り自体はほかでも無くもないと思われますが、その社長の口調が若干ラリったようなおかしい感じだったので、『これは本当に押しかける可能性もあるな…』と野生の本能のようなものが働き、すぐに管轄の築地警察署に事情を説明したところ、何かあったときには110番するように言われました。
すると1~2時間後に事務所のテレビモニター付きのインターホンが鳴ったところ、そこの画像では明らかにカタギではない風貌の男がガムを噛みながら何度もインターホンを鳴らす姿が写っており、間違いなくさきほどの社長だと思い、インターホンに出ることなく110番通報をしました。
ロックを解除してもらえないと思ったその社長は、逆ギレのような形でテレビカメラに自分の噛んだガムをつけて、インターホンのボタンにパンチを食らわせ、諦めて帰っていきました。
(その社長は日体大ボクシング部のOBだったこともあり、インターホンの鉄板が見事に凹んでいました)
そんな日に限って、修習の同期の男2人組が、暇つぶしに私の事務所に遊びに来ようとしており、
『もしかしたら、あいつらあのおっさんと遭遇しちゃうかもな…』と心配になった私はそのうちの1人の携帯に電話したところ、完全にテンパった状態で、「平松さん、警察呼んでください!」と叫んでおり、『もう呼んでいるよ…』と思いながら1階エントランスに急いで下りました。
すると、私の予想通り、彼はタイミング悪く1階エントランスで社長と遭遇し、その後輩のことを私と勘違いした社長は、ボコボコに殴って流血させていました。(当時は事務所WEBサイトに私の顔写真を載せていなかったため、社長は私の顔を知る由がなかったのですが、おそらく弁護士バッチを見て完全に勘違いしたのでしょう)
その直後に警察が来て、彼は築地警察署に任意同行されることになりました。
その事件は確か夕方4時ころだと思いますが、夜中の1時か2時ころまで私も取り調べを受けていました。
(そのときの経験から、被害者が長時間警察署で取り調べを受ける苦痛がよくわかります)
ちなみにその社長は逮捕まではされず釈放されたものの、どの弁護士も怖がって誰もその代理人には就かず、社長本人と私と私の依頼者で、まだ古い庁舎だった千葉地裁の労働審判期日に出廷することになりました。
その事件が係属したのは千葉地裁民事1部で、労働審判官は統括部長で労働審判制度の創設者の1人である三代川三千代さんでした。(なお、当時の同部の右陪席は、現在仙台地裁の統括部長として都築さんや光島さんもお世話になっている高橋彩さんだったと思います)
三代川さんはその名から推測されるとおり女性ですが、私が東京地裁で修習していたときも統括部長として活躍されており、いつも喫煙室で豪快にタバコをふかすなど非常に迫力のある方で、エリート且つ男性ばかり集まる東京地裁の他の統括部長も一目置く存在でした。
実際、その労働審判手続きでも、社長はいちいち私に突っかかってくるなどして周りの裁判所書記官はビビりまくっていたのですが、三代川さんの堂々とした指揮もありなんとか調停を成立させることができました。
法理論も何もない審理でしたが、あの事件は、私と三代川さんでないと解決することができなかったと自信をもって言えます。
(もっとも、調停成立後も、ラリった社長から嫌がらせの電話がたびたび架かってくることがあり、さらには数年後にも私のFacebookでその社長が「友達かも」と表示されたりで、けっこう怖かったです)
315
会社経営含めお仕事をされたこの15年間で、
苦労やピンチをどのように乗り越えられましたか?
「融資が可能なところはとりあえずすべての金融機関に声をかけてみる」
経営としての苦労はお金と人の管理ですが、これはどの経営者にもほぼ共通していると思います。
後者の人の管理についてですが、最初はもとからの知り合いなどの身内のみをスタッフとして雇っており、2009年ころから公募で採用することになりました。
しかし、最初に公募で採用した方が、メンタルが少々おかしく変なところで逆上する方で、まだ経営者としては駆け出しだった私としては、面接時の態度とまったく違うその言動が信じ難いもので、経営者としての最初の壁に遭遇した感じでした。
腹を決めた私はプレッシャーをかけて辞めてもらうことになったのですが、そこから体得したことは、「部下から信頼されることは必要だが、好かれることは必ずしも必要ではない」ということで、この信念は今でも変わっていません。
前者のお金については、キャッシュフローが厳しくなって、スタッフの給与が払えなくなるかも、という状態になることがもっともストレスフルになります。
最初にそれがあったのが、債務整理のCMを出稿して広告費が一気に増えたものの、その和解金がまだ回収できない時期のことでした。
今となっては当たり前のことですが、そのときは取引先へ支払日の先延ばしをお願いしたり、銀行に融資の依頼をしたりし、どちらもだいたい応じてくれました。
第三者から見れば自明のことなのですが、どの取引先も、当事務所の業績が向上してくれないと困るので、信頼関係が失われていなければたいていのことは了承してくれます。また、特に銀行の融資で妥当することなのですが、各担当者は所詮自分のお金ではなく会社のお金なので、たいていは社内のマニュアルや上司の指示に従っているだけで、融資の可否と当事務所がどれだけ信用されているかは、たいした関係がないものです。
それがなんとなくわかってからは、たとえ融資を断られてもショックを受けることはまったくなくなりました。
今では、融資が可能なところはとりあえずすべての金融機関に声をかけてみる、というのが私のポリシーとなっており、それでだいたいは上手くいっています。
415
仕事の上で15年前と現在でご自身が大きく変わったと
思われることを教えてください。
「この背景に家賃・人件費・広告費などの経費がどれだけ動いているのだろう?」
お金に対する感覚が明らかに変わっています。
弁護士としてはじめて民事事件の着手金を受けとったとき、確か300,000円と消費税15,000円(当時は消費税は5%でした)だったと思いますが、「俺がこんな大金受け取っていいのか!?」とにわかに緊張したものでしたが、今となってはちょっとした経費の支払いで一瞬で消えてしまうものです。
感覚的には当時と桁が2つほど変わってきているのではないでしょうか。
これは恒常的に着手金と報酬金を貰うようになったことに拠るところもありますが、やはり2010年の夏ころに債務整理のラジオCMを始めるなどして広告費にどんどんお金をかけるようになったことがやはり大きいです。
それと、物事を見る視点が広がったことです。まずは常に経営者の視点で見るようになっており、日常生活においても、取引となっているものの表面的な金額だけでなく「この背景に家賃・人件費・広告費などの経費がどれだけ動いているのだろう?」と考えることが完全に癖になっています。
また、常にグローバルな視点で見るようになっていることも変わったことです。
これは仕事というより、それなりに金銭的な余裕が出来ていろいろ海外旅行に行けるようになったことに拠るものだと思われます。
日本では弁護士として取引先等からいろいろ気を遣われる存在であるも、海外では小金を持っているだけの英語もしゃべれない男、としか見られず、極めて小さい存在であると感じるようになったことから始まっています。
そして、コロナ禍を経た今となっては、日本の経済の衰退を露骨に感じ、この物価の安い日本のものが中国等の外資に買われた後に自分がいかにして人生を過ごしていくか、ということを頻繁に考えています。
もっとも、それ以外の考え方や仕事に対するポリシーは、ほとんど変わっていない気がします。
515 15年前のご自身へ、贈るとするならどんなメッセージをかけますか?
「物事の決断の際には、何よりも自分の感覚を信じてね」
「物事の決断の際には、何よりも自分の感覚を信じてね」ということでしょうか。
もっとも、そのようなメッセージを受けることもなく、基本的にはそのように信じて15年間過ごしていた気がします(笑)。
それと、「英語の勉強やろうよ」あたりでしょうか。
もっとも、当時は英語の必要性を微塵も感じず、目の前の経営のことでいっぱいだったことから、聞く耳を持たなかったかもしれません。
結局、人間の本質的なところはそんなに簡単に変わるものではないので、仮に有用なメッセージをかけることができても、今と変わらない人生になっている気がします(笑)
この続きは、来週11月14日(月)に公開します。
最後までお読みいただきありがとうございます。平松さんへの15の質問まず5つについていかがでしたか?
印象深いエピソード「ヤクザ風貌ガム噛み男のお話」はスリリングでした。とても冷静に対応されたのですね。
今回のインタビューで気になったことや、感想などはこちらのフォームよりお送りください。